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ゆめのなかでわたしはいつもないている。 いやだよ、とひび割れた声が聞こえる。 答えは返ってこない。 向けた銃口が、震えていた。 向けられた銃口は、震えていなかった。 吐きそうな血の匂いを嗅いだ。 刺すような夜の深さを感じた。 やめて、と嗚咽混じりの声が聞こえる。 答えは返ってこない。 何も見えなかった。 何もかもが見えた。 世界中にひとりだけだという気がした。 世界中でふたりだけだという気がした。 ねえ、と消えそうな声が聞こえる。 答えは返ってこない。 人差し指を引き金にかけた。 人差し指が引き金にかけられた。 どうして、と。わたしは。なきながら、こえを、しぼりだした。 一瞬、せかいはまっしろになった。 目の前の相手は、引き金を引く前に。 ちいさく、ほほえんだ。 「………ッ!!」 衝撃が身体中を走り、彼女は真夜中の自分の部屋の中で飛び起きた。貫くような痛みが、熱が、胸の中心にまだくすぶっている。がたがたと震える指先はシーツを掴むことすらままならない。 「…ぅ……あッ……」 ずきりと心臓が痛み、身体を折り曲げたまま彼女は力なく喘いだ。指先に力を込め、必死に感覚を取り戻そうとする。落ち着け、と自分に言い聞かせる。大丈夫だ。大丈夫だ。わたしは、ちゃんと、ここにいる――――― まだ痙攣の残る手をよろよろと頬に押し当ててみる。濡れている、と認知する前にまた新たな滴が瞳から溢れるのが判った。 「…ッ……ふ……ぅッ…」 ―――――どう、して。 もう幾度目になるか分からないその台詞を、もう幾度目になるか分からないまま噛み締める。 ―――――どうして? ギリ、と唇を強く噛んだ。止まらない涙と治まらない心臓の痛みに耐えながら、彼女は必死で自身を抱き締めた。声にならない叫びが胸の内で暴れ回る。 「……ッ……たす、け て……」 01 予感
「…ッいた!さーんッ!!」 矢のように伸びた声の先に立っていた少女は、一呼吸おいてゆっくりと振り返った。 そこは辺り一面の、満開の桜の海で。 走ってきた少年はぞくり、として立ち止まった。 ―――――――――だれだ、これ? 桃色と言うより乳白色に近い花びらが大気を埋め尽くすように舞い踊っている。暴力的なまでに匂い立つ春の嵐の中、一人佇みこちらを見ている少女は――――――息を飲む程美しく、凄絶に見えた。 音も匂いも消えた真っ白な世界で、敵意も悪意も感じられない無機質なその視線に―――――少年は、戦慄を、覚えた。 「……どうしたの、赤也」 柔らかい声音にハッと我に返る。 降りしきる桜雨の下で笑っているのは――――赤也のよく知る、いつも通りの彼女だった。 「…ど……どうしたの、じゃないっスよ!さんはちょっと目を離したらすーぐどっか行っちゃうんスから、もー!みんなで探してたんスよ?」 「んー、ごめんごめん」 ザッ、ザッ、と。一歩足を踏み出すごとに、の足下で敷き詰められた桜の絨毯が密やかに音を立てる。 風に靡く長い髪を抑えながら赤也の元まで歩いてきた彼女は、片手をポケットに入れたままへへ、と照れ笑いを浮かべた。 「いやあ、あんまりキレイなんでちょっと歩いてみようかなあって思ったんだけど、帰り道分かんなくなっちゃったんだ」 「…いい加減自分が方向音痴だって気付いてほしいっスね…あとその放浪癖も直してください!サンが勝手にいなくなったら幸村部長のとばっちりがオレらに来るんスから!」 「はははっ」 「あーもう笑ってないで真面目に聞けよ!っとにアンタはもう…」 桜に囲まれ、気持ち良さそうに目を細めている彼女に普段と何ら変わる所は見受けられない。長い睫毛、透き通るような肌。―――やっぱり、綺麗なひとだな、と赤也は思い出したように胸中で呟く。そしてやっぱり――――どこかつかみ所のない人だな、とも。 桜並木を並んで歩く。二人の歩幅はほぼ同じだ。 「桜、すごいねえ」 「そっスね。花見の場所、いいトコ取れたっスよ。ジャッカル先輩が朝から席取りしててくれたから」 「…パシリ人生だ」 でもそこがジャッカルのいい所なんだよねえ、とがのんびりと言うのを聞いて赤也は噴き出した。 早朝ということもあってか人っ子一人見当たらない。が、今日が満開だと踏んだ幸村の読みは正しかったようで、あと数時間もすれば大勢の花見客が桜に酔いしれようと大挙してくることだろう。 他愛ない話を続けながら、彼等は仲間の待つ花見場所へと向かって歩き続けた。 本当に、辺りは信じられないくらい静かだった。今この瞬間が、時間の間隔すら見失ってしまいそうな、脆く危うい均衡の上に成り立っているのだと、赤也は肌で感じていた。 世界をそっと抱き締めるような暖かい陽光。見渡す限りの桜の園。はらはらと落ちるのは、本当に桜の花びらなのだろうか?桜の花びらは、こんなにも美しいものだっただろうか? 一瞬突風が吹いて、立ち止まった赤也は顔をしかめて目を覆った。 瞳を開ける。 少し先を歩く少女の細い後姿は―――――桜と渾然と一体になって。溶け合ってしまうように、見えた。 ザア、と桃色の風が駆け抜ける。ズキン、と暗い痛みが頭をよぎる。 ――――はらはらと落ちるのは花びらじゃなくて、少しずつ消えてゆく、あの少女の欠片なのではないか? 「――――ッさん!」 それは自分でも驚くほど切羽詰まった響きの声だった。 はきょとんとした様子で肩越しにこちらを見ている。彼女は今日は俺を振り返ってばかりいるな、と頭の隅っこでひどく冷めた自分が呟くのを聞いた。 ――――どうして俺は、こんな気持ちになっているんだろう。 この世のものとは思えない程美しい桜の中で立つ少女は、確かに自分のよく知る存在なのに。紛れもなく、今ここに存在していると思えるのに。 「……、さん」 ――――ああ、それでも。 俺は、こう言わざるを得ない。言わないと、多分この人は本当に。 「……オレ達が見つけられないようなところへは、絶対に、一人で、行かないで―――――………ください」 一瞬の後、彼女は笑った。 刹那を凝縮した、長い長い、一瞬だった。 *** 「あーよく食ったー!」 「いやマジお前食いすぎじゃし」 夕闇が長く尾を引いている。酒も入っているせいか、さっきから周囲のテンションは妙な具合に高揚していたけれど、珍しくその輪に入らずに、俺はずっと黙りこくったまま歩いていた。 げらげらと笑う、先輩達の声、はあまり耳に入らなかった。頭の奥で離れないのは、あの人の後姿。いつもすぐそこにあるのに――――はっきりと掴むことの出来ない、あの人の細い背中が。 「……どうしたんだ、赤也。さっきからずっと、深刻な顔してるね」 振り返った部長に習うようにして、先輩達は立ち止まった。んだよ、酔ったかー?にへらあ、と笑う丸井先輩にお前には言われたくないだろうと柳先輩が返す。ぎゅっと拳を固く握りしめて、俺はしばらく言葉を探していた。様子がおかしいと気付いたらしい部長が、後ろの方で騒いでいる丸井先輩を手で制止した。 ――――俺、何だか変だ。桜の海で溺れたせいで、少しばかり神経過敏になっているんだろうか。 そう短くもない時間を一緒に過ごしてきたさんを見て―――― ―――――こわい、と思うなんて。 寸前まで出かかった言葉を飲み込んだ後、聞こえてきたのは、いつも通り呑気で明るい、自分の声だった。 「いやー、そう言えばオレ、サンの家知らないなーって。先輩達、知ってます?」 先輩達は顔を見合わせた。 暫く何とも言えない沈黙が流れて、ジャッカル先輩が口を開いた。 「……一人暮らし、ってのは聞いたことあるけど」 「え、マジ? つーか何でお前が知ってんだよ! ふざけんなハゲ!」 「ぐえ…っやめろ!」 「……そう言えば知りませんね…帰り道が一緒になっても、いつも駅で別れていましたし」 「そうだな。今日のように集まっても、あいつは必ず一人で帰るからな」 「……はあけっぴろげに見えるけどガードはものすごく固いからね」 緩やかに紡がれた部長の言葉に、思わず俺達は立ち止まって、再び顔を見合わせた。そこに何か暗黙の視線が噛み合わさったような感覚を覚えて、俺はああやっぱり、と思う。多分――――俺が感じたようなことを、先輩達も感じている。……彼女の中には、俺達には窺い知れない深い淵がある、と。 「いや…何か今まであんまり意識してなかったけど、そう言われるとそんな気がする」 ぽつり、とすっかり真顔になった丸井先輩がこぼす。 ジャッカル先輩は肩を竦めて足元の小石を蹴っ飛ばした。淡々と呟く。 「……俺にしたって、一人暮らし、ってのもつい最近聞いたばっかりだぜ。それもすげえ何気ない調子だったからうっかり聞き逃しそうになったしな。思わず突っ込んで聞こうとしたんだが、知らない内に言いくるめられて、気付いたら別の話題になってた」 寒空の下、凍えながら突っ立っている俺達は、みんな何となくやりきれない気持ちになっていた。 去年の春、先輩は青学から立海へと転入してきた。綺麗な容姿に反して飾らず自然体な人だったから、初対面のときには少なからず驚いたことを覚えてる。あっちでマネージャーをやってたということもあって立海でも同じ位置についたけれど、仕事はちゃんとしていたし、何よりも先輩は人間的魅力っていうんだろうか、誰にでも好かれる才能を持った人だった。春先にはよく枕を家から持ってきて始終眠り場所を求めてうろうろしていたり、練習に野良犬を十匹ぐらい連れてやってきて副部長に怒鳴られてシュンとなっていたり、あるときなんか何日も泣き腫らして真っ赤な目をしてたから何事かと俺達が血相変えて問いただしたら「ボスが…ラスボスが倒せない…もう三日完徹なんだ…」などと呟き、その後部長にゲームを没収されて部室のすみっこでいじけて泣いていたり。 のんびりとして人懐っこくて、明るくてお人よしで。どこかとぼけているんだけど何だか憎めない、元気いっぱいの、という存在は――――俺達にとって。大事な仲間で、愛すべき人間だった。少なくとも俺はそう思ってたし、その認識はこれからも続いてくと思ってた。 訥々と語る力ない声が聞こえる。誰かと思ったら自分だった。 「……俺、朝、先輩を探しに行きましたよね? あんとき、あのひとは桜の木の下でいつもみたいにぼーっとしてて。先輩、っていつもみたいに呼んだら、ゆっくり振り返って―――――」 ――――あのひとの、あんなにも色のない、ガラス玉のような目。 瞬間背筋が凍って、俺は後ずさった。それは多分――――― 「……怖い、って思ったんです。そんとき初めて。目が合ったその一瞬、俺は……この人は誰だ、って、思ったんです」 今や先輩達の顔は鉛を飲み込んだかのように暗く沈んでいた。そうさせているのは自分の話だと分かっているけれど、俺の口は止まらない。言葉を吐き出すごとにきりきりとどこかが痛むのに、やめられない。 「……俺、そのとき、ほんと唐突なんだけど――――この人はきっと、何かあれば何の迷いもなく俺達の前から消えちゃう人だって、思った。自分がその気になれば、すぐにでも全部捨てて、遠いところへ行ってしまうような人だって。そのことに気付いて、思わず言ったんです。……俺達が見つけられないような所へは、一人で行かないでください、って」 いつの間にか橙色の光は消えて、濃紺の闇が重苦しく俺達を包んでいた。 桜の海が鮮やかに思い浮かぶ。背筋を伸ばして、無機質な目でこちらをひたと見詰めていたあのひとの姿が。 幸村部長が静かに俺を促した。 「それで、は何て?」 「………何秒間か、真顔で沈黙した後で、いつもみたいにへにゃって笑って。そんな遠いところまで行けないよ、わたし方向音痴だし、って言いました」 ああやっぱりこのひとは、決して自分を見せない人なんだと――――そのとき本格的に、俺は気付いてしまったのだった。気付いてしまったことに対する多少の後悔と、彼女の足元に引かれた一線がいかに太く重いものなのかという絶望と一緒に。あのひとはきっと――――………誰のことも、信じて、いない。 丸井先輩が乱暴に頭をかきやって、小さく「…クソッ」と吐き捨てた。夜の乾いた空気が肌を突き刺す。やり場のない思いがぐるぐると胸を駆け巡っているのは俺だけじゃないようで、先輩達もみんな押し黙っていた。 「――――別に、ええじゃろ」 唐突に沈黙を破ったのはそれまで一言も言葉を発さなかった仁王先輩だった。淡々とした声音は全くいつも通りのもので、俺は思わず顔を上げてしまっていた。視線が非難めいているように感じたのだろうか、仁王先輩はちらりと俺を見やると肩をすくめてみせた。 「が俺等に何も言わんのじゃったら、言うまで待てばいいだけの話。……違う?」 「……や、それはそうだけどよ」 間の抜けたジャッカル先輩の声が即座に突っ込む。一瞬間を置いて、ふっと空気が緩まるのを感じた。丸井先輩が笑う。そっか、そうだよなー! 柳生先輩は苦笑してそんな丸井先輩を見やった後、そうですね、わたしもそう思います、と穏やかに呟いた。部長も、副部長も柳さんも、柔らかい顔に戻っていた。たった一言で重苦しい空気を壊した仁王先輩はと言えばもうさっきと同じだんまりを決め込んで、気だるげな猫背のまま、寒そうにマフラーに顔を埋めている。……いやまあ、この人はいつもこうなんだけど。じんわりと、柔らかいものが広がるのを感じて、俺はそうっと息を吐いた。そうか、ただそれだけの―――ことなんだ。あの人が、さんが歩み寄ってきてくれないのなら、ただ側でじっと待っていればいい。何処かに行ってしまっても、また探しに行けばいい。理解できないからといって、離れる必要はないんだ。俺等はみんなあの人がすきだから、ずっと、近くにいれば、それでいいんだ。多分それは、俺等にとって間違いじゃない。さんにとっても、そうであればいいなあと―――思う。 「うぇっくしゅ!」 「む、風邪か赤也。たるんどる!」 「う…ええ?!(なにその超理不尽な叱り方)」 「まあ春先とは言ってもまだまだ寒いからね。……ちょっと時間食っちゃったな。さ、帰ろ」 「ああ、そうだな」 「…寒…」 「げっ仁王おまえなんか今日ぽっちゃりしてると思ったら超厚着じゃね?!何枚着てんだよ」 「いや、どっちかっつーとぽっちゃりしてるのは」 言い終わらない内に丸井先輩の飛び蹴りを喰らったジャッカル先輩の悲鳴が夜道に響く。ちょっ…誰か駆けつけてきたらどーするんスか!慌てふためく俺を尻目に、先輩達はげらげら笑っている。 吐いた息がしろいもやになって上空へ吸い込まれていくのを見てたら、不意に思った。きっと後々、この場面を何度も思い出すと。電柱に格ゲーの技繰り出してはしゃいでる丸井先輩とか、げんなりした顔のジャッカル先輩とか、目が合うと心配ないよって言うように小さく笑う幸村部長とか、とうとう「寒い死ぬ…」と呟いてしゃがみこんだ仁王先輩を呆れたように見下ろす柳生先輩と柳先輩、そして「たるんどる!」と額に青筋を立てている真田副部長。しんとした、肌を突き刺すような冷たい空気とか、でも何となく体の奥があったかいその理由とか。 「あーそういや何か近々合宿あるっつてたよな、幸村」 「ああ、うん。俺もまだ詳しいことは聞いてないんだけど、何でもすごく大規模なものらしい」 「大規模ねえ…いつぞやの選抜合宿みたいな?」 「ねね部長、それ、三年だけとかじゃないっスよね?! 俺も入ってるっスよねっ?!」 「赤也、大きな声を出すなと言っているだろう! 今何時だと思っている!」 「お前もじゃろ……」 声が、続いていく。しんと冷えた空気に顔をしかめながら、ふと後ろを振り返ってみた。―――今夜は満月みたいだ。 「それにしても今日は冷えるな」 「なあ仁王お前ホッカイロ持ってたよな、ちょっと貸「やだ」 「合宿ってどこのガッコくんだろーなー楽しみー」 「そうだな、氷帝や青学あたりは確実に含まれているだろうな…他にも六角や不動峰なども候補としては考えられる」 「オラ、何だか……ワクワクしてきたぞ!」 「悟空かよ」 突っ込んで、珍しく仁王先輩が小さく笑う。目が合うと、ぐしゃぐしゃと頭をかきやられた。何するんスか、と騒いでいたら、また丸井先輩が入ってきた。 暗い道をみんなでわいわい騒ぎながら、ゆっくりゆっくり、歩いていく。ふと、思った。 しあわせって言うのは多分そのときわかるものじゃなくて、もっとずっと後に、あああれがそうだったのか、と気付くものなのかもしれない。当たり前のものは、失ってからじゃないとその重みがわからないのかもしれない。つめたい夜、ぼんやり佇んで目の前の先輩達を見ながら―――何となく、そう思った。 そのちっぽけな真理を、そう遠くない未来にいやという程実感することになると、誰が―――知っていただろうか。 月の綺麗な―――綺麗な、夜の―――ことだった。 ← menu → |