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その日とうとう、悪夢はわたしに追い付いた。
02 胎動
ガタン、と一瞬強く揺れた衝撃にはビクリと寝惚け眼で体を強張らせた。 胡乱な頭でしばらくぼうっとしていたが、右隣の窓越しに見える暗いトンネル光ですぐにああ、と納得する。 ……また、嫌な夢見ちゃったな。 小さく身じろぎすると体の節々が痛んだ。長時間同じ体勢をしていたからだろう。 「…、起きた?」 不意に左側から響いた低い掠れ声は緩んでいたを一瞬の内に覚醒させた。反射的に振り返った彼女の眼に映る銀髪の少年はいつも通りの淡い微笑をこちらに向けている。心臓がきゅっと縮んだ。逆光でうっすらと影になるその輪郭が過去のそれと重なって揺れる―――― 「…おら、まだ寝てろ」 「?」 「…え?わあ仁王顔近っ、あいたっ!」 呆けている内に目と鼻の先にまで近付いていた仁王の顔に驚いて思いっきりのけぞったは、勢いよく背後の窓ガラスで後頭部を強打してしまった。予想外の痛みに頭を抱えてうなる。 仁王はしげしげとこちらを見つめ、短く噴き出した。掌で口を覆うようにしてくつくつと笑い続けている。 「…〜〜っ仁王…!」 「…っくく…いや、今のは俺のせいじゃなか…!」 「なになに?楽しそうじゃんよ」 「あれ、サンどうしたんスかー?」 騒ぎを聞きつけてか、丸井と赤也が前の座席からひょっこり顔を出した。まだ眠いらしく、赤也の方はしきりに目をこすっている。 じんじんする頭をさすりながら、はふくれっ面でなんでもないよと呟いた。仁王は笑いすぎて涙目になっている。丸井と赤也がちょっかいをかけてくるのをいなしながら、彼女は物憂げに溜息をついた。 バスはトンネルを抜けて高速道路に入ったようだった。時折横をかすめる大型トラックの運転手は皆一様に無表情だ。窓の外のねっとりとした闇から視線を逸らし、はさっとカーテンを引いた。隣では仁王も交えて他愛ない話をしている。頭の芯を一瞬よぎった痛みに顔をしかめ、は意味もなく額に手を当てた。 ―――――まただ。 唐突に訪れる頭痛の間隔は次第に短くなってきていた。それに加えてここ二、三日まともな睡眠を取っていない。眠ると悪夢に巻き込まれると分かっていながら大人しく床に就くことなど出来る筈もなく、部屋の隅で毛布をかぶって夜を過ごすということも少なくはなかった。はそもそも体力も持久力も高いほうだが、それにしたところで体に悪いことを続けていることに変わりはない。自分の不調を周囲に気取らせているつもりは微塵もないけれど、朝から少し気を張りすぎて参っているのも事実だった。だからついうとうとしてしまったのだろう。 エンジンの重低音が振動となって感じられる。はひとりぎゅっと唇を噛み締めた。…大丈夫。みんないる。何一つ、怖いことは、ない―――――はずだ。 ともすれば叫び出しそうになる口の端を無理やり引き上げて、は隣の話に加わった。 「あんまり騒いじゃだめだよ、誰か起きちゃったらどうすんの」 「へーきだって。それより、何か食いもん持ってねぇ?」 「…ええと、まだ何か残ってたかなあ…あ。ハイ、ポッキー」 「さんきゅー!」 「あ、サンオレもオレもー!」 「はいどうぞー」 「ー俺にはくれんの?」 「……ひとの不幸を笑うようなひとにはあげません」 「はは、仁王いい気味ー」 「サンポッキーゲームしましょうよ!」 「いやしないからね、ちょっ…しないってゆってるじゃんかー!わあーやめろー!」 ポッキーをくわえたまま真剣にににじり寄る赤也を、丸井が無言で殴った。そのままいつものごとくじゃれあいに発展している。 ……騒がしいことこの上ない。うっかり真田あたりを起こしでもしたらどうするんだとは怯えて立ち上がった。と、後方で一人起きている様子の少年と目が合う。 そっか、そう言えばこのバスには六角も乗ってたんだっけ。 相変わらず爽やかに笑っている彼に手を振り、もう一度恐怖の副部長が眠りこけているのを確認して、ストンと腰を下ろす。 「…サン、誰に手ぇ振ってたんスか」 「ん?サエだよ」 「六角の佐伯?何、アイツと接点あったっけ?」 「うん。前に不二に紹介されてね、それから友達になったんだ」 「不二ねぇ…っつか今回の合同合宿って確か青学もだろぃ?あいつら何かとを青学に連れ戻すチャンスをうかがってるかんな…だってお前、不二によく青学戻って来いって言われるっつってなかったっけ?」 「んー最近はそんなことないけど、この間は『立海の奴らに何かされたらすぐ僕に言ってね速やかに処理してあげるから』ってゆわれた」 「オイィィそれ間違いなくオレらアイツの抹殺対象だろーが!どーすんだよあんな腹黒魔王に目ぇつけられちまってー!」 「心配ないぜよ。立海の魔王も腹黒度では負けちょらん」 はは、違ぇねー、と笑う赤也。も思わず真顔で頷いてしまう。 ……あの二人が衝突したらどうなるのだろう。 考えるだに恐ろしい話だった。 「っつーかサンがやたら顔広すぎなんスよ…氷帝の奴等とも何気に仲イイっスよね?こないだだって練習試合んとき芥川サンがサンにひっついて離れなかったじゃないスか!」 「えーと、でもジローとわたしが仲いいのは昔からだよ?イトコだからね」 「…は?イトコって、と…芥川がぁ?」 「うん…ってわたし前に言わなかったっけ?ていうか最近のジローの抱きつき癖まじ勘弁してほしいんだけど…うう、わたし抱きつかれる度に窒息死しそうになるもん…」 「そんな血縁関係知らなかったぜぃ…(芥川の奴…確信犯だな)」 「そりゃ…初耳ぜよ(芥川の奴…確信犯じゃな)」 「ふむ…興味深いデータが取れたな(芥川確信犯…っと)」 通路を挟んで向かい側には柳が座っていたのだが、彼はいつの間にかノートを取り出し例の如く何かを書き付けていた。 ぎょっとした赤也がのけぞる。 「っうわぁ!柳せんぱっ、起きてたんスか?!脅かさないでくださいよー!」 「ああ、済まなかったな。ところで、他に親交のある学校はあるのか?」 「え?そうだなあ…不動峰とは杏ちゃんつながりだし、ルドルフは不二の弟ってことで裕太つながりだし…あ、山吹とも仲良しかな、仁がいるから」 「それって今回の合宿に参加するガッコ全部じゃないっスか!丸井先輩やべぇっスよこれ!」 「だな…、お前他校の奴らの半径1km以内に入んじゃねーぞ!」 「何を大袈裟なこと言ってるの…ってか騒いじゃだめだってば今真田が身動きしたよ!もし幸村まで起きちゃったらどうすんの?!い、いやだよわたしまだ死にたくない…!」 「…、怯えなさんな。大丈夫じゃ、幸村はお前さんには甘いからの」 「そうだな、それは俺のデータとも一致する見解だ。安心していい。ところで、お前と亜久津が知り合いだというのは俺のデータになかった点なのだが?」 「え?えーと…まあ平たく言うと、古い付き合いの友達。幼馴染みたいなものだね」 「ふむ。…有難う、またいいデータが取れた」 また何やら書き付けて、柳は話の輪から外れた。 気心の知れた仲間とのお喋りのおかげで随分と気分は楽になった。胸中で安堵の溜息をつきながらも、は素早く自分の話の内容を反芻する。 ジロー。仁。自分の生い立ちを、ある程度知っている――――二人。最も、知っているというただそれだけだ。の方から話題にしたことはないし、それは二人とも同様だ。彼等も、そこまで深く踏み込むべきではないと――――感じているのだと、思う。カーテンの隙間から時折差し込むのは薄暗い電灯の明かりばかりだ。夜明けはまだ来ない。 ふう、とはもう一度溜息をついた。 -――――夜は、苦手だ。 「ありゃ。…寝てしもうた」 「え?…あれ、ほんとだ」 静かになったと思ったら、前の座席の騒音コンビはすっかり寝息をたてていた。二人とも、寝ていれば人畜無害なんだけどなあ、とはくすりと笑う。 そろり、静かに後方を振り返ってみれば先程まで起きていた佐伯も腕を組んで寝入っていた。柳も寝ている…のだろうか。普段から瞳を閉じているので判りづらいが、身動き一つしないところを見ればおそらくそうなのだろうと彼女は勝手に結論付けた。 起きているのは、自分と仁王だけ。認識すると同時に空気の流れがどことなく変わったのは気のせいではないようだった。 「…、眠くなか?明日から大変じゃし、寝れるときに寝ちょった方がええよ」 「ありがと。や、でも一回起きちゃったから何か逆に目が冴えちゃってさ」 そうか、と横顔だけで笑う仁王。 実を言うとには未だに仁王のことがよく判らない。飄々として、マイペースで、周りに興味がないように見えるのに驚くほど人間観察が鋭い。別に非社交的という訳でもないのにここまで感情が読めない人間というのも珍しいと思う――――――― 「」 は場違いなほどビクリと身体を硬直させた。室内は暖かいのに、全身に鳥肌が立っていた。 ぎこちなく隣を見上げた彼女は今度こそ固まった。心臓がきゅっと音を立てて縮んだけれど、それは、恐怖のせいじゃ――――なかった。 仁王が、こちらを、見ていた。 微かな躊躇の気配をまとわせて、韜晦の色を目に浮かべたまま――彼はぽつりと小さく落とすように呟いた。 「なあ、お前さん――」 におう、と呟いた筈の声は咳となって空中を舞った。 懐かしい――――忌まわしい匂い。いつかどこかで、これと全く同じ経験を――わたしは? 不明瞭な思考の海に沈み、何も分からなくなる。催涙ガスの攻撃的な匂いがを包み込み、彼女は激しく咳き込んだ。。 ぐにゃり、と視界が歪む。目が痛い。咳が止まらない。息が出来ない。な、に これ―― ――嘘だ。 脳内を閃光のように過ったその感情は衝撃だった。知らない知らないなにこれ何なのどうしてあたしはこんなことを、分からないだって知らないこんなこと、あたし、知らな――声にならない悲鳴が脳裏で響き渡った。自分の体なのに、自分の知らない恐怖が己の中で暴れ回って――のパニックに拍車をかける。 どうしてなんなのなんであたし、こんなにおびえて、知らない知らない知らない知らない知らないなんにも、知らないのに、どうしてこんな―― 頭が割れる。上下左右の感覚が全く判らない。仁王が何処にいるかも判らない。 信じられない、という驚愕。ああやっぱり、という絶望。 指先に骨ばった手が触れた。 薄れゆく意識の底で、は声が嗄れるまでたった一つの名前を呼び続けていた。その響きを、彼女は未だ知らない。 ← menu → |